マネジメント

加藤 嘉一 Yoshikazu KATO

1984年静岡県生まれ。2003年高校卒業後単身で北京大学留学。
同大学国際関係学院大学院修士課程修了。
英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、北京大学研究員、香港フェニックステレビコメンテーター。年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書く。
香港系フェニックスニューメディア(鳳凰網)における自身のブログは2008年3月開設後、3カ月で500万、半年で1000万アクセス、現在2500万アクセスを突破。
最新の単著に『従伊豆到北京有多遠』、『中国、我誤解イ尓了口馬?』がある。
趣味はマラソン。

オフィシャルサイト



加藤嘉一年表 日本編

1984年4月28日

静岡県田方郡函南町に生まれる (実家は農家、長男)

3歳(原点)

実家の農業の手伝いを始める。
この頃の趣味は世界地図を見ること。
トラックにひかれ生死をさまよう。この頃から死生観を問うようになる。「明日を切り開くのは自分自身、未来は押し出していくもの」という考えもこの頃に養われる。
幼年期の終わり。少年期が始まる。

小学校

静岡県沼津市立開北小学校入学 (ギブスを付けての入学式)
責任感を持って学級長や生徒会長を務めるも、周囲に理解されず、「違和感・閉塞感」を感じる。その答えを探るべく、世界への意識が芽生える。
小学校3年生の時、柔道部にスカウトされる。この頃すでに165cm・80kg。半年で全国ベスト8に。
父親の仕事の都合で、山梨県南巨摩郡身延町立小学校へ転校。野球部にスカウトされ、すぐにレギュラーに。

中学校1年生

山梨学院大付属中学校入学
個人で陸上を始める。800m走で関東大会出場。
また、「英語は世界へのパスポート」と、英語の独学を開始。

中学校3年生
(きっかけ)

修学旅行でオーストラリアに行った際、日本と世界の差に驚愕。「世界は大きかった」「日本のやり方が全てではない」「自分の違和感・閉塞感は間違っていなかった」と確信。これを機にもともと得意であった英語を本気で学ぶことを決意。

高校1年生

山梨学院大付属高校入学
特進クラスにいながら、強化部である駅伝部に入部(文武両道の精神を同校に根付かせる)

高校2年生

修学旅行で全国の大学を巡る。これを機に「大学で学ぶのもいい」という考えが芽生える。
3年生に進級する前に「今後、スポーツと勉強のどちらを取るか」を自問自答。最終的に勉強を選択。数ヶ月で偏差値50前後から75に。
英語の翻訳を始め、家計を助ける。

高校3年生

「現在の家の経済状況で、本当に大学に行ってもいいのか?」という疑問が常につきまとっていた。
受験直前に、山梨学院大と北京大が学術協定を結ぶという話を聞きつける。学長と北京大担当者が会談している場を訪れ、北京大側からスカウトされるよう自分をPR。結果、先方から「是非来て欲しい」との言葉を引き出す。


加藤嘉一年表 中国編

2003年4月
(転機)

北京へ渡る。「中国語ができない」「お金がない」「知り合いがいない」という三ない状態であった。
学生寮に入るも、あまりの過酷な環境に初日から人生初のホームシックに。母からの手紙だけが心の支えであった。
初代ルームメートはアラファト議長の親類。その他、各国大使の子息などが入寮しており、ここでグローバルな人脈を築いていく。
入学後、半年はSARSの影響で授業は休講。その間、アイス売りのおばちゃんと8時間話し続ける、警察と仲良くなり人民日報を無料で貰う、日本人をシャットアウトしてラジオを聞き続けるなどして、中国語をマスター。半年後には中国語の翻訳を始め、生計を立てる。

2004年3月

北京大学文化祭に当時の中国大使が来訪。その際、北京大の学生の質問に答えなかった大使に激昂。以降、大学内で一目置かれる存在に。(デビュー戦)

2005年4月

北京大学留学生会会長を務める中、反日デモの現場を目の当たりにする。その翌日、反日デモに対するコメントを求められ、香港フェニックスTVに出演。「今回の反日デモは、日本と中国のどちらが悪い?」との問いに、「外交にどちらがいいも悪いもない。お互い反省すべき点があるし、今後は建設的に話を進めるべき」との回答。これ以降、メディアからのオファーが殺到。

2006〜2008年

日本経済金融フォーラム、北京東京フォーラムなどで同時通訳を担当。日中ジャーナリスト会議(日本側座長・田原総一朗)では報告書作成を担当。
その一方、数々の商談の場でネゴシエーターとして活躍。
また、大手総合商社、大手銀行、メディアなどのビッグプロジェクトを取りまとめる。(数百以上)

2008年5月

胡錦濤が訪日3日前に北京大を訪れ、面会を求められる。この様子が人民日報の一面に。

2008年6月

大学卒業を控え、ほとんどの日本人OBに「一度白紙にして日本に戻ってこい」とアドバイスを受ける。銀行や商社からのスカウトが殺到。しかし、今後予想される中国の伸びを考え、このまま滞在をあえて延長して人脈を形成していく方がよいと判断。大学院進学を選択する。仮にこの判断が失敗に終わったとしても、「大陸の誘惑に負けた」と割り切ろうと決意した。
なお、アメリカに行くという選択もあったが、「アメリカにはTIME誌の表紙を飾ってから行く」と、自らに目標を課した。

2010年7月

北京大学院卒業